パーソナリティとは?/ レイク
[ 456] 最近増えた「ちょっとおかしな」人々 (パーソナリティー障害)
[引用サイト] http://poesie.hp.infoseek.co.jp/Depress41.htm
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■ どうでしょう? 職場でも学校でも家庭でも、こんなタイプの人が自分のまわりにいたら、誰だってうんざりするでしょうし、付き合いにくいと思うに違いありません。 でも、よくよく考えてみると、これほどひどくはないかもしれませんが、あなたの身の回りにも思い当たる顔が具体的に浮かんできませんか?そして、このような言動の持ち主が最近はとみに増えているような気がしませんか? Disorder)(日本語では「人格障害」)に分類される、そうした思考・行動パターンを持つ、あなたにとって「付き合いにくい人」 「変わった人」 「困った人」 「ちょっとおかしな人」の精神構造を知り、いざそうした人たちと関わりを持たざるを得なくなったときの付き合い方を、具体的なケースに即して考えていこうとするものです。現代日本の社会現象として、日毎に蔓延している一種の症候群と言っても良いかもしれません。 今の日本の社会の居心地の悪さ、希薄でぎすぎすした人間関係、出口の見えない逼塞感などが相俟って、そうしたものを生み出しやすい培養基となっているのでしょう。 病的なレベルまではいかなくても、対人関係において他人との適切な「距離」が取れずに、いたずらに利己的になり、また攻撃性を露わにするような、まわりの人間からすれば、「付き合いにくい人」 「変わった人」 「困った人」 「ちょっとおかしな人」は確実に増えています。そして、そんな人たちとの人間関係に振り回されて、それまで順調だった人生が一転してしまった人や、煩わしさのあまりに精神的に変調を来たした人の例も数多く見てきました。 できることなら、円満で円滑な人間関係を持ちたい、人間関係のトラブルは避けたい----これは誰しも願うことです。しかし、いざそうした人たちと関わりを持たざるを得なくなったとき、まずはあなた自身の考え方そのものも変えなければならない部分もあるようです。 普通に社会生活を営みながら、時として神経症や心身症、あるいは人格障害がもととなって、自分自身が精神的におかしくなるだけでなく、そのことによって周りとの人間関係がうまくいかない人たちに対しても、なぜそうなってしまうのか、どういう距離をとって付き合えばいいのか? などといった点について、オープンに語られることがあまりなかったのです。 見て見ぬふり、さわらぬ神に祟りなし。おそらくこんなふうに考えている人が圧倒的に多いのではないでしょうか。誰にでもわかる言葉でこうした問題を語って来なかった精神科医たちにも問題はあるでしょう。何だかよくわからないところに思い込みや誤解、偏見が生まれるのは、ある意味では当然かも知れません。 しかし、これからの日本の社会は、いよいよ『心のサバイバル』時代に入って行かざるを得ません。『心の病』がもとになって、周囲の人たちとうまく「距離」を取れなくなってしまう人たちが、これまで以上に多くなることが容易に想像されます。 そうなると、『心の病』についてきちんと理解したうえで、不幸にしてそうした病を得てしまった人、あるいは、そこまでいかなくても、あなたにとって「付き合いにくい人」 「変わった人」 「困った人」 「ちょっとおかしな人」たちと、きちんとした「距離」をとって付き合っていくことが必要となります。さもなければ、対人関係におけるトラブルによって、あなた自身の心の健康が失われてしまうことだってあり得ます。 身も蓋(ふた)も無い言い方に聞こえるかも知れませんが、最終的には自分の心の健康は誰も守ってくれない、自分自身で守るしかない----そう考えたほうがいいのです。医療の専門家も含め、 まわりができることは、実はほんのちょっとしたお手伝い程度のことだけかもしれないのですから。 ひょっとしたらあなただって、いまでも周りの人から「ちょっとおかしな人」と思われているかも知れません。あるいは、今はそうでなくても、ある日を境にそうした存在に変わる可能性だってあるのです。 例えば、職場で「お局さま」的な先輩にいじめられていて、周りから同情を集めていたOLが、先輩がいなくなった途端に豹変し、自分が「お局さま」的存在になって先輩と同じことをやり始める----そんなことがよくあるからです。『心のサバイバル』時代と言ったのは、そういうことでもあるのです。 「人のふり見て我がふり直せ」と昔の人はいいました。他者とは自分を映す鏡だということです。人間誰しも、自分の心の中にあるマイナスの要素を認めたがらないものです。たまたま誰かから指摘されたりしたときに、むきになって否定したり、それがもとで友人関係にひびが入ることもあります。 あなたは自分では気付かないまま家族や友人、部下、同僚などに不快な思いをさせたり、迷惑をかけていないかと問われたときに、自信をもって「NO」と言えますか? 少なくとも私自身にはその自信がありません。 固まってしまったものだと考えられます。しかし、そのメカニズムはまだ明らかになっていません。そのため、現在の「パーソナリティー障害」の診断は、症状ごとに分類されています。 一方で、各人の「パーソナリティーのかたより」とは、本人にとってはごく当たり前なものですから、患者さん自身がこの「パーソナリティーの問題」を認識するのは非常に困難です。そのため、医師や研究者が行った人格障害の診断には、かなりのばらつきがあることが知られています。 きっかけは本人が友人と酒を飲んだとき、たまたま妻の誕生日の話題になり、その後、友人から妻宛に誕生日プレゼントが送られてきたことからだといいます。 定年後、嫉妬妄想はひどくなり、現在では妻が外出から帰宅すると、ボディチェックしなければ納得しなくなっているということで、奥さんの悩みは尽きません。 高齢化社会を迎えた今、こういうケースは確実に増えています。この場合はまず、嫉妬妄想というのは初老期の男性に出やすいということを理解する必要があります。そして、みなさん頑固で説明困難というのも特徴です。とほほ、、、、 ですから、思いあぐねた家族の方から相談を受けても、実際に本人から事情を聞きだしたり専門家の治療を受けるところまでは話が進まないケースが多いわけです。なにしろ、本人は「自分が思っていることが正しい」と思い込んでいるわけですから。 とくに、60歳前後というのは、男性としても家族の長としても、社会人としても、その役割が怪しくなってくる時期です。奥さんに対してもある程度の支配的な感情がだんだん保てなくなってくる自信の喪失感とも関係してきます。このまま嫉妬妄想が拡大していけば、暴走が止められなくなってしまいます。もしそうなれば、専門治療の対象となりますね。 70歳や80歳のお年寄りのなかにも、奥さんが絶対に浮気をしていると言い張る人がいます。息子や娘など、家族の方は、それを聞いて笑うわけですが、おじいちゃんは、みんなが自分の妻に対して色目を使って誘惑しているとか、間違いなく浮気をしているなどと信じ込んでいるのです。 定年前後は抑うつ病や嫉妬妄想が出やすい時期だと言われています。ライフサイクルの中で社会的な役割も変わってきますし、肉体的な衰えや病気、子どもの独立などの要因が重なって、喪失感やうつうつとした気分が、嫉妬妄想や貧困妄想へとつながることがあるのです。 どんなに立派な人であっても、老年期に入って社会の第一線から退いたり、それまでの人間関係の中から、ひとりまたひとりと消えていったりすると、自分とは何かというアイデンティティに関わる問題を強烈に突きつけられてしまうわけです。ましてや、それが自分にとってのキーパーソン《:その人にとってかけがえのない存在、信頼できる存在、強い絆で結ばれている存在=家族(親、子ども、配偶者)、友人、恋人、先輩、同僚、先生など》だったりすれば、なおさらです。 趣味を持つこともそのひとつです。こういうと、趣味なんか年をとってからでいいと思われる方がいるかもしれませんが、付け焼刃ではとうてい頼りになる柱にはなりません。若いうちから少しずつ育てていくことです。「これがあれば生きていける」、「これだけは。。。」と思えるものでなければ、心の支えにはなりにくいのです。 でも、考えるまでもありませんが、いつの時代でも人間は悩み多き存在ですし、無人島に一人暮らしならいざ知らず、複数の人間がいれば人間関係のトラブルはつきものです。では、なぜここ数年の間に、対人関係においてトラブルを訴える人たちが急速に増えてきたのでしょうか? それは、現代社会において共通の「規範」が失われてしまったことと大きく関係しています。規範といっても、なにも難しい話ではありません。簡単に言えば、ある集団に属する個人が、「こう生きるべき」とか「こうあるべき」とかを暗黙のうちに決める生き方のモデルやモラルと考えればいいでしょう。それが集団と個人、個人と個人の関係を安定的に保つ原動力になっていたわけです。 こうした規範意識が世代から世代に受け継がれ、私たちはそれに支えられた社会のなかで、それに反発したり賛同したりして、自分対社会、自己対他者との関係がどうあればいいかという生き方のノウハウを学んできたわけです。 反発や賛同の対象が政治であったり、会社や学校であったり、あるいは家族であったり友人や上司・同僚であったりして、そのなかで他者を傷つけたり傷つけられたりすることで心の痛みを知ったり、相手の立場に立ってものを考えることの大切さを覚えながら、自分自身の自我を形成することができたのです。それは、成熟した大人になるための通過儀礼(イニシエーション)でもあったのです。 会社のために家庭や自分の楽しみをすべて犠牲にして働いてきたのに、ある日突然、リストラの対象にされてしまう。それも、昨日まで机を並べていた同僚が人事担当に配属されて、彼の口から解雇を通告される----そんなことが、いまでは日常茶飯事----。 また、電車の中で物を食べたり、化粧をしたりする若者の姿が目立ちます。なかには、混んだ電車の中や街頭で平気で抱き合ったりキスをしたりする若者もいます。こんなシーンは、ちょっと前までの日本だったら「恥知らず」のひとことで周りから大顰蹙を買うのがおちでした。躾(しつけ)のやかましい人が見たら、卒倒したかもしれません。これまでの規範意識からすれば、およそ信じられないことがまかり通っているわけです。 さらに、本来なら社会の規範意識を代表・代弁すべき政治家、裁判官、検事、警察官、教師などの金や性をめぐる破廉恥な事件が跡を絶たないわけですから、「こう生きるのが正しい」とか、「こうするべきだ」などといった、自我を確立する上でのモデルやサンプルを見つけようとしても、なかなかうまくいかなくても不思議ではないのです。 例えば、かつて新潟県警の刑事が、現職警察官としては初めてストーカー規制法違反で書類送検されるという事件がありました。私たちはこの手の事件にはもう慣れっこになっていて、「ああ、またか」と思われた方も多いはずです。でも、本来ならストーカーを取り締まるべき役割にある刑事課の警察官が、ことの是非を忘れてストーカー行為に走ってしまう。そこには、何らかの人格的・性格的な問題、それも「反社会性パーソナリティー障害」の問題を疑わざるを得ません。 最近は、翻訳本がブームとなっていますが、これなどは、こうした日本の現状を見るにつけ、それに代わる「何か」を探し求めている日本人を象徴しているような気がしてなりません。 その人にとってかけがえのない存在、信頼できる存在、強い絆で結ばれている存在、お互いに強い影響力を及ぼすことのできる存在、そうした人のことを《キーパーソン》と言うわけです。 最近の高校生には、メル友は100人以上いるのに、直接会って親身になって相談に乗ってくれる友人がいないなんて人も珍しくないそうですが、薄く広くという人間関係のスタンスからは、《キーパーソン》が生まれてくるはずもありません。もっとも、こんなことはわざわざ私が言うまでもないことです。 職場や学校や家庭で人間関係に悩んだり困ったりしたときに、気安く相談に乗ってくれるような人がいれば、一人で悶々として、精神的におかしくなったり、問題をこじらせたりすることもないからです。 「大変だったね」という共感の言葉ひとつを投げかけられて、破局の淵からUターンすることが出来た人を、私は何人も知っています。さらに、《キーパーソン》の有無によって、さまざまな精神疾患からの回復にも明らかに違いがあるのです。 それらのものに自分をぶつけてみて、反射して返ってくる像を自分なりに修正しながら出来上がっていくもの、それを自我と言ってもいいでしょう。「人のふり見て我がふり直せ」とはよく言ったものです。 ところが、社会や他者との関係が希薄になっていれば、そうは行きません。自分の中に結ぶ像はあやふやになり、すきまだらけで脆弱なものにならざるを得ません。 すきまだらけで不安定な自我。それを埋めるものが、自分のきわめて身近にあり、自由にアクセスできる「情報」です。それがテレビアニメやゲームであったり、インターネットに氾濫する情報であったりするわけですが、要は何でもいいんです。自分を仮託できればいいわけですから。 「これがなければ死んじゃう、生きていけない」と言う女の子にとっての携帯電話の存在は、大人が理解できようとできまいと、彼女にとっては自分を支えるための必須アイテムなのです。しかし、ここに落とし穴があります。 最近の若い人に人気のサイトの中には、驚くようなところが随分とあります。そこには、びっくりするほど、言葉の暴力、そして性的暴力を含む肉体的な暴力のオンパレードのところが少なくありません。 何の意味も脈絡もない殺戮シーンや異常なセックス場面を四六時中、見続けるような環境に置かれたとしたら、いったい人の意識はどのように形成されるでしょうか? 「人を刺したらどういう傷ができるんだろう?」 「人を殺して相手の反応を見てみたい」などという妄想的な欲望に取り憑かれる人間が出てきたり、相手に性的な嗜好異常を強要しても構わないと思い込む人間が生まれたとしても、決して不思議ではありませんね。そう思わせられるほどの驚愕の異常さに満ちていると思います。 知り合いの精神科医から聞いた話です。 性に目覚めたときから、男性の女性に対する支配欲を満足させるようなシーンが中心のAVビデオを好んで見続けてきた男性のケースです。 女性に対して引っ込み思案というわけではなかったのですが、いざ男と女の関係になろうかというときに、なんとなく引いてしまうことが多く、もっぱら性のはけ口はソープランドの求めていました。 そんな彼が27歳を過ぎたある日、半年ぐらい付き合ってきた彼女と初めてベッドインとなったときのことです。初めて自分が主導権を握って性行為に及んだ彼は、興奮のあまりに夢中になって、AVビデオで「疑似体験」したさまざまなシ−ンを彼女に求めました。 今の日本では、どこへ行っても性にまつわる情報が氾濫しています。しかし、中身は玉石混淆で、誰もが正しい知識を身に付けているはずもありません。しかも、問題の性格上、おいそれとまわりの人に相談するわけにもいきません。恋人や配偶者との性的関係がうまくいかずに一人で悩んだあげく、精神科クリニックを訪れる人が、今確実に増えています。 問題を起こす子というのは、ある日突然に暴走を始めるわけではありません。家族や学校の担任が注意を怠らずに見ていれば、早い時期から何らかのサインが出ているはずです。そのサインをキャッチして適切に対処できれば、大事に至ることは回避され、子ども本人も救われるのです。 発症そのものは、生後6ヶ月頃から見られます。家にいるときは割合と穏やかで、テレビや本などに結構集中することができますが、外へ出て集団の中に入ると、途端に注意力が散漫でじっとしていられなくなります。そのため小学校に入ってから、担任の教師に 『この子は落ち着きがない』 『周囲に迷惑をかけるので困っている』 などと指摘されて、初めて気付くことが多いのです。 もちろん、「注意欠陥/多動性障害」がそのまま「行為障害」や「反社会性パーソナリティー障害」になるわけではありませんが、早期に治療を施して、その後の経過を注意深く観察するに越したことはありません。 、中学校に入ってからはその傾向がますますひどくなり、じっと座って授業を受けていることができなくなってしまいました。 授業中に歩き回って教師に注意されても一向に改まる気配はなく、また、家庭内暴力も見られ、近所の子と喧嘩したり、万引きを繰り返して問題になっていました。 困り果てた家族が、その少年を精神科医のM医師のところへ連れていき相談しました。M医師はS少年を「注意欠陥/多動性障害」と診断し、早速入院治療することにしました。入院によって刺激を受け、S少年は落ち着くことができましたが、病院内でも初対面の人と接したり、初めての場所に足を踏み入れると、ひどく緊張します。 心理療法では、行動療法的なプログラムを計画しました。つまり、「多動」 「集中力の欠陥」 「暴力性」 という3つの側面から行動をチェックし、抑制できたときはたっぷりと誉め、抑制できなかったときはそのことを指摘し、場合によっては保護室に入ってもらった。すなわち個室に隔離するわけです。これは刺激の少ない環境で行動の破綻を防いでもらうのです。 この行動療法と並行して行った薬物療法では、抗てんかん薬の「カルバマゼピン」を処方して攻撃性を抑えるようにしました。通常は抗精神病薬や抗うつ剤が効果があると言われていますが、M医師の治療経験では確実な効果があった例が一人もおらず、抗精神病薬の「ハロペリドール」や抗てんかん薬の「カルバマゼピン」のほうが効果があったからだそうです。それでも病院の壁を3回も壊すような乱暴行為を働き、ささいなことからほかの入院患者と大喧嘩したこともありました。 学校を無事に卒業してからは施設のそばにアパートを借り、施設で働きながら、彼がなついていた祖母と暮らし始めました。その後はほとんど問題なく過ごし、時折M医師を訪ねてきては、友達とやっているロックバンドのために書いた詩を恥ずかしそうに見せてくれるようにまでなったそうです。 この「注意欠陥/多動性障害」は慢性的なもので、小学生の頃に目立ち始め、中学生になるといっそう激しくなりますが、多くの例で20歳までにはかなり落ち着いてきます。とは言え、「行為障害」や「反社会性パーソナリティー障害」に移行して犯罪に手を染めるケースも少なくないので、決して軽視はできません。 この「行為障害」は、「注意欠陥/多動性障害」から移行したり、あるいは両方を併せ持っていることも少なくありません。家庭環境を見ると、両親の不仲や離婚、児童虐待、親の厳しすぎるしつけ、親自身が「反社会性パーソナリティー障害」やアルコール依存症や薬物依存症のケースなど、混沌とした家庭状況であることがほとんどですね。 これまた、M医師の扱った実例の紹介。中学1年生の男の子Kは、学校で人をいじめたり、よく喧嘩をし、ときにはナイフで人を脅かすこともあるので、全校生徒から恐れられていました。また、しばしば人の物を壊したり、ウソをついたり、動物を殺すこともありました。 ◆ 「遊戯療法」というのは、文字通り 《遊び》 を通して治療するものです。子どもは大人と違って、言葉で自分を表現したり、自省したりすることが難しいので、治療者が子どもと一緒に遊ぶことで、子どものイメージを育てたり修正したり、心を癒そうとするのです。 このような治療を組み合わせて改善を図ったところ、K少年は6ヶ月後には退院できるほどに落ち着いた。しかし、「行為障害」の傾向は完全には抜けないため、中学校を卒業した後は、施設的な高校に進学することになりました。 「反社会性パーソナリティー障害」の人は、犯罪的な行動を繰り返すものの、良心に乏しいので罪悪感を感じることがなく、不安やうつ状態になることもありません。人を愛する能力に欠けているので、人の気持ちを理解したり、同情する優しさも不足しています。 その一方で、相手の顔色を見ながらウソをついたり、言うことをしょっちゅう変えたりして、人を巧みに操作することには長けている。------そのため、表面上は魅力的に見えることが多々あります。なんとも困った存在といえます。 彼女は父親を愛していたがゆえに、見捨てられたと思い悩み、その頃から反社会的な行動が見られるようになった。 万引きはスリルを味わうためであり、家で母親のお金を盗んだり、街で女性のハンドバッグをひったくることもたびたびだった。性的にも男性遍歴を重ね、ときには売春もしていた。覚醒剤やシンナーを使い、ときには乱交パーティー。。。。 警察には二度捕まり、少年院にも二回行ったが、やがて22歳となり、次に捕まれば刑務所に入るのは確実だった。それでも覚醒剤や売春は相変わらずやめる気配が無く、母親のもとにはめったに帰らなかった。 「反社会性パーソナリティー障害」を外来で治療することにはほとんど意味がありません。そもそも罪悪感を持っていないし、失敗から学ぶ姿勢も持ち合わせていないからです。従って、専門の医療施設に入院させて、おのれの問題に直面させるほかないのです。 心理療法は、真剣勝負のつもりで徹底的に対応する必要があります。「反社会性パーソナリティー障害」の人は相手の顔色を見ますから、こちらがいい加減な気持ちでいると即座に見透かされ、治療効果が上がりません。 「集団療法」(グループ・セラピー)も効果的ですが、条件があります。他の参加メンバーはすでに「反社会性パーソナリティー障害」的な傾向から離脱していることです。彼らが十分に離脱していないと、グループで集まり、かえって反社会的な行動を促進して逆方向に向かってしまうからです。 彼女にはとくに心理療法を中心に治療を進めたが、やがてようやく「こんな無茶を続けていても自分は救われない」と考えるようになった。 彼女は、これまでやれることをやりつくして壁にぶつかり、結局は自分を救えるのは自分しかいないということを理解して、やっと、自分の人生を歩き直そうという気になってくれたのです。その後、暫くして彼女は退院し、老人介護施設で働き始めたということです。 ● 最近の若い人たちを見ると、礼儀正しく、いわゆる「いい人」が多いようです。親の言うことを素直に聞いて育ったんだろうなと思わせるのですが、中に特徴的な傾向を持つタイプが目立つようになってきました。 ひとつは、人の言いなりになって相手にしがみつくタイプと、もう一つは、他人の面倒を見ることで相手を自分の中に巻き込んでしまうという、両極端のタイプが多く見られることです。 まず、前者ですが、親の言いなりでいい子に育ってきた人は、はっきりとした自分の主義主張を持たずに、借りてきた知識や情報をひけらかす傾向が強いようです。たとえば、「誰それがこう言っている、あの本にはこう書いてあった」と、やたらと有名人が言ったことや本・雑誌からの引用ネタをひけらかして、あたかもそれが自分の意見であるかのように繰り返す人です。そこにあるのは借り物の知恵・知識ばかりです。自分自身の意見・主張がないために、聞いている方は「だから、それがどうしたの? あなたの意見は?」と、イライラするばかりです。 次に、後者の「世話焼き女房」タイプですが、ときには「博愛主義」という仮面を被っているケースが見られます。何か問題を抱えて困っている人を探し出しては、その人の面倒を見ることによって、自分の存在をアピールし、維持しようとします。 しかし、こういう人は他人の問題には異常に関心を示す反面、自分自身の問題になると全く無関心なのです。つまり、ひたすら他人(や、他の事)に尽くすことが自分の喜びなのです。そうすることが善であると思い込んでいるために、ときには他の人たちに対しても自分と同じような行動を強要しがちです。 ですから、このタイプの人は、自分とは異なる行動を取る人がいるとすぐに注意したり、言うことを聞かないと憎しみを抱いたりすることさえあります。いわゆる「お局さま」タイプのなかに結構多そうな気がします。また、場合によってはギャンブルやアルコール、薬物依存などに悩んでいる人たちと親密な関係を持つこともあります。 「依存症で悩んでいる人に手を差し伸べて助けてやるのが私の使命だ」と思って接するわけですが、徐々に相手が回復してしていくと、「今度は自分が用済みとなって捨てられてしまうのではないか?」という恐怖心に苛まれてしまいます。 そうなると、今度は相手の回復を手助けするようなふりをしながら、「私がいないとあなたの依存症は絶対に治らない」と半ば脅迫し、相手がいつまでたっても依存状態から抜けられないことをひそかに願ったりします。 相手を助けるふりをしながら、実は自分が捨てられないように相手の失敗を願うのです。そこでパートナーが裏切り行為をしようものなら、その人に対する怒りの炎は燃え盛り、徹底した攻撃を加えるようになります。 こうした人間関係を見るに見かねて、第三者が不用意に口を挟んだりすると面倒なことになります。自分のパートナーを横取りする存在と見なされてしまうのです。ふたりの絆の隙間に入り込もうとする存在に対して、容赦はありません。自我の崩壊に瀕しているわけですから。こうした場合の介在者は、いくら善意であれ、親切心であれ、当人にとっては関係はありません。パートナーを奪おうとしている略奪者以外の何者でもないのです。 また、こうした人たちのなかには、人間関係で見捨てられたり裏切られたりする苦痛を経験するくらいなら、いっそ独りでいるほうがいいと、社会や家族との接触を絶って《引きこもり》になる人も少なくありません。あるいは《引きこもり》という極端な行動は取らなくても、自分が見捨てられたり、裏切られる前に、みずから対人関係にピリオドを打つ場合もあります。 これでは相手のほうがたまったものではありません。昨日までは{いい}関係であったものが、理由もわからないまま豹変するわけですから。結局、人間関係も長続きしなくなってしまいます。 また、甘えることができる世界、自分のすべてを受け入れてくれる世界を夢見る傾向もあります。特に女性にその傾向が強いようです。これが、男女間の恋愛関係になると、ことさら面倒になってきます。少しでも自分を受け入れてくれる男性であれば、たちまち理想的な男性だと思い込んでしまいます。ありのままの現実が見えないために、周りの人たちが「遊ばれて捨てられるのがおちだよ」と親切に忠告をしても聞き入れません。 極端に言うと、「好きか嫌いか」の二者択一で、中間がないのです。ですから、いくら相手は「良き友人」でいたいと思っていても、そうは行きません。見捨てられるのを恐れるあまりに、「貢ぐ人」になってしまうケースも多く、よくある女性銀行員による横領事件の背景には、こうした心理が働いている可能性があります。 そして、見捨てられるのが怖くて仕方がない気持ちとは裏腹に、突然、何の脈絡もないままに、理想の恋人を「自分を不幸に陥れる極悪人」などと思ったりすることがあります。ですから、昨日あれほど愛し合ったはずなのに、翌日になってみると態度が豹変して相手を罵倒したりすることがあります。そうかと思えば、罵ったすぐあとに、それがまるで嘘であったかのようにベタベタ甘えてきて愛情を取り戻そうとすることもあります。 こういう人のパートナーであり続けるのは大変です。いつも振り回され、しまいにはノイローゼになってしまいます。こうした状態が顕著であれば、あなたのパートナーは「境界性パーソナリティー障害」(「ボーダーライン」)だといえます。 いずれにしても、ボーダーラインは決して治らないという病気ではありません。専門医の治療に加えて、家族をはじめ周囲の人々の温かい援助があれば、当人の自暴自棄な気持ちを抑え、人格の成熟を促してくれるものと思料します。 ● 「境界性パーソナリティー障害」(「ボーダーライン」)は時に多重人格(解離性同一性障害)と紛らわしいことがあります。ボーダーラインの人は、衝動的で感情が非常に不安定なことが特徴で、気分変動が激しくて刹那的な行動が多く、そのため自分というものがわからないという障害を抱えています。ここが多重人格と似ているのです。 アメリカの報告によると、多重人格者が持っている複数の人格の中には、必ずと言っていいほどボーダーラインの人格が存在しています。ボーダーラインの人は多重人格を発症しやすく、多重人格者はボーダーラインを併発している可能性が高いとされています。 ボーダーラインの患者は、今、確実に増えつつあります。その理由として、現代の消費社会そのものにその原因があると言えます。消費社会では、自分の欲望を発揮することが奨励されます。欲しいものを我慢するのではなく、それを手に入れるためにお金を稼げと教えられます。お金が無くても、ローンで買って後で返済する仕組みもありますから、これでは、欲求を抑制できない衝動的な人間が多くなるのは当然と言えるでしょう。 ボーダーラインを生む原因は、家庭の混乱や地域共同体の崩壊にもあります。個人の自我を支えるしっかりした人間関係が希薄化すれば、自分本位になる一方で、他者を通して自分のパーソナリティーを確かめ、鍛えることができなくなります。従って、自分が何者であるかという自己同一性が不確かなものとなり、それがボーダーラインの増加につながっていると考えられるのです。 多重人格もまた自己同一性の不確かさの点で、このボーダーラインと同根です。これまで多重人格は日本では少ないとされてきましたが、今後は増えていくことが予想されています。 こういうタイプの人と付き合ってしまったとき、あるいは付き合わざるを得なくなったとき、振り回されるのは常にこちらですし、その結果、さまざまなトラブルはもちろん、精神的なダメージを受けることも少なくないはずです。そこに何らかの人格的な障害が関係していることは十分に考えられるのです。 ● いまさら言うまでもありませんが、「信頼感」こそが人間関係の基本をなすものです。信頼感と言う基本的な安心を、社会や他人に対して持てるからこそ、私たちは自分自身を表現したり、行動することができるわけです。 人間の心も、車のハンドルと同じようなもので、『あそび』がなければ、外からの力に対してすぐ反応して、『キレ』てしまいます。『心の力学』とでも言えばいいのでしょうか? そのような環境から生まれる人間関係は、おのずとギスギスしたものとなり、軋轢(あつれき)も生じやすくなります。 気持ちを理解する力と自分の気持ちを表現・主張する力が統合されたものです。この二つの方向の異なるベクトルが調和して保たれている状態が理想的です。ところが、今の日本人には、この二つのベクトルのバランスが崩れてしまった人が余りに多いのではないでしょうか? ある時は自信過剰で居丈高になってみたり、またある時はへんにおもねってみたり、だんまりを決め込んでみたりと、実に不安定な精神構造にあることが見て取れる----この国を代表する政治家にも、こんなタイプが増えてます。ある意味で今の日本(人)の精神状況を象徴するのでないかと思ったりするわけです。 コミュニケーション能力の衰えは、対人関係の基本である言語能力や表現能力に必ず影響してきます。さきほどの伝で言えば、それが外に向かえば、お互いが自分の自我、エゴをむき出しで衝突することになりますし、逆に内向きに働けば、周りとの接触を嫌って自分だけの世界に閉じこもる要因になったりします。 もう少し具体的に言えば、一つは、対人関係においてお互いの立場を理解しないで一方的に自己の利益ばかりを主張して争ったり、人の話を聞かないで独断専行するなど、身勝手な行動が顕著になったり、自分さえよければ他人のことはどうでもいいといった協調性に欠けることにもなります。 冒頭にあげた例で、他人を利用ばかりしている人、自分の自慢ばかりしている人、特別扱いにすることを要求する人などは、そうしたケースと言えるでしょう。 『心の力』の衰えは、人間であれば誰もが持っている攻撃性(夢中になって砂遊びをしていた幼児が、突然、作ったものを壊してしまう行為なども、その現れです)や、衝動性などが容易に解放されるきっかけともなります。 ちょっと冷静に考えれば、あるいはあとになって考えればそうはならなかったのに、という経験は程度の差こそあれ誰にもあるものですが、この刺激--反応系が過敏になって、ちょっとした刺激に過剰に反応しやすくなることも珍しくないのです。 何年も前に、後ろの車に大きなクラクションを鳴らされたことに腹を立てて、相手のドライバーを刺し殺した人がいました。あとになってわかったことですが、二人とも普段はボランティア活動にも熱心な真面目なサラリーマンだったそうです。 普段ならそんな恐ろしい行為をするはずのない人たちが、衝動的にあとさきのことを考えずに事件を引き起こしてしまう。いくらおとなしくて、真面目で「いい子」であっても、何かのきっかけさえあれば、内面に抱える攻撃性や衝動性を爆発させてしまう。人間は誰しもそのような要素・要因を抱えて生きているのです。『キレる』とはまさにそういうことで、その意味では、明日はわが身ぐらいに考えておいたほうがいいのです。 ● 夫婦の間にはさまざまな行き違いや衝突がある。「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言うけれど、そうした喧嘩をしながら互いに理解と諦めの気持ちを育むことで、やがて穏やかな関係になれば夫婦は安定飛行に入ります。 夫婦の軋轢はいつまでたっても修正できず、相手に対する恨みが蓄積していきます。なぜ夫婦喧嘩ができないかというと、一方が優位に立って他方を無力化し、相手を思うがままに支配し続けているからです。優位に立っている側は相手をいじめ、そのいじめが快楽にすらなっているケースもあります。 たとえば、夫がしばしば妻に暴力を振るうので、妻の体には生傷が絶えない。そんな話を聞けば、なんで妻は夫から逃げ出すなり離婚しないのかと思うけれども、既に妻の精神は夫に支配されているのです。そのため、どんなに殴られたり蹴られたりしても、妻は自分が悪いからだと思ってしまうのです。たとえ殴られなくても、言葉による暴力が執拗に浴びせかけられ、そのためいつしか抵抗する気力も失ってしまうこともあります。 東京で平凡な暮らしをしていた女性が、ある地方都市の豪商の跡取り息子に見初められ、その家に嫁入りしました。東京で気ままに暮らしていた人間が、田舎の旧家の伝統に馴染むのは大変で、しきたりや儀式を一通り覚えるのに随分と苦労したことでしょう。 それを何とかこなせるようになると、今度は嫁姑の問題がのしかかってきました。姑の嫁への対応は、表面的には優しいのですが、日常のちょっとしたことにも口をはさみます。嫁の立場の彼女にとって、その物言いは陰湿で、深く傷ついていきました。 「拭き方も知らないで、よく平気でこんなところにいられるね。この頃の嫁はまったく図々しいものだ」とつぶやくように、しかし彼女にはっきりと聞こえるように言うのでした。 姑が面と向かって言ってくれれば、納得できることなら従うし、おかしいと思えば反論することができます。しかし、独り言をわざと聞かせることで、彼女の反論を封じ、そして彼女を支配しようとする。姑は「私を見習い、私を尊敬しなさい」というメッセージを発しているのです。 一人はささやくように、もう一人は怒鳴り声で、、、二人から挟み撃ちされる毎日を送るうちに、とうとう彼女はうつ病になってしまいました。確かに病気になるのも無理は無い環境であり、病気に逃げるしかないところまで追い詰められていたのです。 に言い返すこともできなかった。そんなことをすれば、夫には「なんてお前は弱い女なんだ」と怒鳴られ、姑には「それではこの家の嫁は失格です」と負け犬の烙印を押されることが目に見えていたからだ。 状況を打開しようとして口を開けば、そのお返しが何倍にもなり、かえって自分が苦境に陥るのが容易に想像できると、人は何も言えなくなります。そのうち彼らが言うように、自分は本当にダメな人間なんだと思うようになってしまったのです。 夫の海外赴任でアメリカで暮らしていたとき、家族は実に円満だった。子どもが生まれれば夫婦一緒に喜び、休暇のたびにドライブ旅行し、毎日の生活も楽しんでいた。外国では係累が少なく、家族を支えるために夫婦が協力していたのです。 しかし、一家が日本に帰ってきたとき、夫は仕事以外の時間を宗教活動に費やすようになり、妻と過ごす時間がなくなってしまいました。妻はそんな夫に愛想を尽かして、子どもを連れて実家に戻ることが多くなりました。アメリカでは絵に描いたような仲良し家族が、帰国後はあっという間に崩れてしまったのです。 妻は最初のうちこそ「私はできるだけのことはしています」と言っていましたが、それ以上の反論はしませんでした。そのうち夫を避けるように、実家にいる時間が長くなっていきました。 夫はやがて自分の言うことを聞かない妻に怒りをつのらせ、「お前なんかこの家から出て行け。子どもだってお前を嫌っている」とののしるようになりました。そしてついに、ある朝、 妻が夫の前であからさまに逆らうのは初めてでしたが、同時に最後になりました。これで夫婦生活はピリオドを打ってしまったからです。 このケースを分析すると、夫はかなり自己愛性が強い人間です。先の例の地方都市の旧家で嫁を迎えた姑と夫もそうなのですが、彼らは自己愛性パーソナリティー障害と言っていいかもしれません。 ● 自己愛性パーソナリティー障害の人たちは、これらの例の主人公に見る通り、共感性が乏しく、自分が中心になって周囲の人を動かさないと気が済まないし、いつも誉められていないと安心できません。そのため、強引な力の論理を使って周囲の人を犠牲にしながら、自分を高めようとするのです。 者のケースでは、その妻や嫁が支配の対象になりますし、会社という組織の中でも、自己愛性パーソナリティー障害 者は、過度の賞賛を要求し、目的を果たすためには他人をいいように利用し、他人との共感性が顕著に低く、嫉妬深いという特徴があります。つまり、部下には絶対的な忠誠を求めたり、部下を酷使したあげくに使い捨てたり、自分を脅かすライバルを蹴落とすタイプです。 その周囲には、従順で真面目で几帳面、そして小心な人たちが取り巻きのように従っていることが多い。彼らは、自立心が乏しいために、強い指導力の傘が欲しくて、あえてこのような自己愛性パーソナリティー障害 やたらと明るく振舞うところが、対人折衝に役立つのではないかという判断もあったのでしょう。さわやかな外見が好印象を与えたことも確かです。Bさんは営業部門に配属されました。入社した当初は、いまどきの若い人には珍しく、始業時の30分前には出勤し、課員全員の机を掃除するなどのけなげな姿が見られました。 Bさんは小学校から有名国立大学卒業まで優秀な成績で過ごして来ました。学生時代には勉強面で挫折したことが一度もありません。父親は一流企業勤務、母親は東京の有名女子大卒業、経済的にも恵まれ、一人っ子の彼は、たいていの欲しいものは手に入る恵まれた環境で育ちました。勉強以外で困ったことがあれば、両親のどちらかがすぐに手助けしてくれたそうです。 そんなBさんでしたから、自分は優秀だから誰にも負けたくないというプライドは人一倍強いものがありました。それは彼の態度にすぐに現れるようになりました。 同僚や上司に対して、知ったかぶりや偉ぶったりすることが多くなってきたのです。それだけなら「ああ、Bさんはそういう性格か」と放っておけるのですが、反面、彼は極度の甘えん坊でわがままでもあったのです。 優秀さを自慢するだけあって、Bさんは少し荷が重いかなと思える仕事も得意先から取ってきました。ところが、その後がいけません。納期に間に合わなくなって、結局、上司に「何とか助けて下さい」と泣きを入れるのです。 こんなことが二度、三度と続きました。最初は寛大だった周囲の人たちも、ついには怒りを通り越してあきれ返る始末に。しかし彼はまわりの反応や視線などわれ関せずで、同じことを繰り返してしまうのです。 そのたびに同僚が彼の尻拭いのために得意先に謝りに行ったり、自分の仕事をあと回しにして、別の得意先から苦情を言われることが頻繁に起こるようになりました。ある日の営業会議の席上でした。みんなから苦情を言われたBさんは、こう言い放ちました。 そして、周囲をはばからず大声で泣き出したのです。これにはさすがの部長や部員もその場をどう収拾していいかわからなかったそうです。これ以上、事態が進行すると、会社の信用もがた落ちになるし、ほかの部員にも悪影響を与えることを危惧した部長は、人事部に彼の異動をかけあいました。しかし、どこの部署にも空きがなく、しかたなく外回りの営業ではなく、資料整理や顧客管理などの内勤を命じたのです。 ところが、彼は優秀であるはずの自分がなぜ内勤に回されたのか少しも理解できません。事情をよく知らないほかの部署の人をつかまえては、「なぜ、自分が、自分が、、、」と愚痴をこぼしながら、それでも内勤の仕事をしているそうです。 Bさんのケースは、自分の優秀性をまわりに誇示する自己愛性パーソナリティー障害と、肝心な場面で責任を避ける回避性パーソナリティー障害の二つの側面が現れています。 Bさんのような場合、異性との関係もうまくいくはずがありません。事実、話を聞いてみると、女性と長続きしたことはないというのです。最初は自分が優秀と思い込んでいますから、寛大な態度で付き合うのですが、いったん性的関係ができると、本来が甘えん坊でわがままな性格ですから、豹変します。 嫉妬深くなり、行動のあれこれをチェックして自分の思う通りにならないと怒り出したり、彼女の何気ないひと言でカッとなって暴力を振るうこともあったそうです。それでいて「自分を捨てないでくれ」と甘えるのです。そんなことが続くものですから、女性のほうはいたたまれなくなってしまうのです。 しかし、Bさんには懲りるということがありません。しかも両親は彼が外の世界でそんな低い評価を受けているとは夢にも思っていません。このままいけば、彼はどこに行っても受け入れてもらえなくなり、家に引きこもってしまう可能性も高いのです。 こういうタイプの人は、自分の意見を持たないことで、周りに救われてきたといえます。指示待ち人間になることで、徹底的に周囲との軋轢を避け、自分のポジションをキープしているわけです。部下からすれば、まさしくやっかいな上司には違いありませんが、案外、こういうタイプは多いものです。 同じく優柔不断でも、こだわりが強すぎてかえって決められない場合と、このケースのように、自分の意見が持てなくて決めかねる場合とがあります。周りが決めてくれるのを待とうとするわけです。 周りが決めてくれれば、結果はどうあれ、とりあえず自分の責任は回避できます。この係長がいちばん避けているのは、「責任」の問題です。あるいは、叱られるのが怖いというトラウマを抱えているかもしれません。こうした言動が、日常生活のあらゆる場面に見られるようなら、「回避性パーソナリティー障害」の疑いが考えられます。 ところで、私の友人にも自己決定がなかなかできない人がいます。実害は? というとさほどないのですが、彼と食事に一緒に行くとなると大変です。彼は何事にもこだわるタイプで、グルメ情報について情報誌、単行本からインターネット情報まで膨大な情報を持っていますから、いちいちうるさい。それなのに、いざ今日はどの店にしようか、という段になると、あれこれ考えて決められなくなってしまうのです。実際、何時間も一緒にほっつき歩いて、結局、行く先々で店が閉まっていたなんて経験が何度もあります。 ● E子さんは20代半ばの、スタイル抜群のお嬢さんで、家は都内にいくつかの豪邸を持つ資産家です。しかし、家庭内は複雑で、父親は外に何人もの女性を囲っていて、母親はそんな父親に嫌気がさして不倫に走ったこともあります。 両親は、彼女に対して、あるときは目の中に入れても痛くないかのように扱ったり、またあるときは手のひらを返したりと、情緒不安定な扱いを交互に繰り返します。本人としては、親を拒絶したい気持ちがある反面、依存したい気持ちもあって、そのもやもやを解消するために、10代のころから自傷行為やアルコール依存、性的放縦などを繰り返してきました。 ところが、母親は、娘の親離れを引きとめようと必死になりました。ご主人に見放され、そのうえ娘にまで見捨てられる孤独に耐えられないのです。なにしろ、娘に自分の不倫の相談までしている母親です。 こんな母親に対し、E子さんもむげにはできません。そうした二律背反の精神状態がフラストレーションとなり、はけ口となったのが、彼女にべた惚れのフィアンセでした。 一般に、母親と子どもの共依存が生まれる背景には、夫婦関係の問題が投影されています。家庭内で夫婦間の会話が無くなり、特に妻としては夫に応えてもらいたいと思っているのに、夫から何の反応もない状態が続くと、そこで溜まったフラストレーションが、「第三者」である子どもに向いてしまうのです。そして、夫はあてにならない、子どもだけが頼りだと、ますます我が子に依存して、結局、子離れができなくなるのです。 一方、子どもの方も母親の期待に添わなければならないという、半ば使命感に似たものを背負い込み、母親のために献身的に努力するという構図が家庭内に出来上がるわけです。 母原病(ぼげんびょう)という言葉があるように、親が作り出す心の病気があります。このケースのように、親は子が親離れすることを半ば脅迫的に抑圧し、親離れしそうになると、ときには「親不孝」などと罵ることもあります。つまり、「親の子離れ」のほうが、「子の親離れ」よりも遅いのです。 もし自分の親がこのタイプだとしたら、それを解決する方法は一つしかありません。勇気を出して、親から見たら「悪い子」になることです。ただ、親の持つ共依存の幻想を切り裂くには、かなり強力な「悪さ」を要求されるかもしれません。 本当の愛情は、決して甘いだけのものではありません。突き放して自立を見守るのが真実の愛です。盲愛・溺愛とは違います。あなたは、本物の愛に生きることができますか? ● 2001年の1月、香川県高松市で行われた成人式の会場で、数人の新成人が市長の挨拶そっちのけで酒を飲み回し、あげくはクラッカーを市長に投げつけるという「事件」がありました。また高知県でも、知事の挨拶中に汚いやじを飛ばし続けた若者が、橋本大二郎知事から退場を命じられる騒ぎがありました。 その後の日本、成人式の都度似たような不謹慎な事件が続いています。テレビのニュースで見て、まったくこんな騒ぎを起こすような子の「親の顔が見てみたい」と思った国民は数知れずでしょう。どんな環境の中で育てたら、、こうなるのか。 大人になるということは、他人が自分をどう見ているか? ----つまり外部の視線を、自分の中にきちんと取り込んで、機能させることに他なりません。成人式の祭典には、少なくとも会場に同席した同年代の新成人や祝う側の市民、マスコミなど周囲の視線があったはずです。 そういうことを意識していれば、周囲の視線を少しでも想像することができていれば、酒を飲み回してクラッカーを市長に投げつけるという「衝動」むき出しの行為はできなかったはずです。これは、「共感能力の欠如」ということです。 成人式の例で言えば、まあ、若者特有のやみくもに権威・権力に反発したくなる気持ちはわからないではないですが、そこには自分と同じ二十歳(はたち)の若者がいて、一生に一度のことを楽しみにしている人もいるのではないか? 事件を起こした若者も親に用意してもらった晴れ着を着ているわけですから、会場には息子や娘の晴れ姿を一目見たいと期待しているたくさんの親たちがいるのではないか? ----こうした(ごく当たり前の)もろもろのことを想像するのが共感能力というわけです。 ● もう一つ指摘しておかなければならないことがあります。『心の力』の衰えが引き起こす『依存症』の問題です。アルコール依存症、賭け事に溺れるギャンブル依存症、コカインや覚醒剤、麻薬、シンナーなどの薬物依存、ひたすら風俗に溺れる風俗依存症、ローン地獄に追い込まれても買い物をやめられない買い物依存症(「買い物バカ病」)など、価値観の多様化した現代人は、あらゆるものに自らを仮託し、さまざまなものに依存するようになっています。 依存癖の強い人は、周りを巻き込んで人間関係のトラブルを引き起こすことがあり、依存性パーソナリティー障害とか回避性パーソナリティー障害と呼ばれるものが関係している場合が少なくありません。 ● 運輸会社の営業課長(38歳)。日ごろから何でもないことまでひとりで大騒ぎしたあげく、大問題にしてしまう。得意先からの単なる問い合わせの電話でも自分で処理しなければ気が済まず、結局は大騒ぎになってしまうことも再三再四。 なるべく課長には電話を取らせないようにしているものの、部員の手がふさがっているときに電話に出てしまうことがあり、みんなは、「お願いだから余分なトラブルを起こさないで」 「何も言わずに聞くだけにしてほしい」 と聞き耳を立てています。だが、課長には部下たちのそんな思いは伝わらず、部員同士の単なる事務連絡のやりとりにまで、口をはさんできます。 この課長のように、瑣末なことにまで口を出してうるさいタイプは、支配欲求が強く、すべてを自分の支配下に置き、把握しておかないと安心できない人です。つまり、不安感と強迫観念がかなり強い性格といえます。 逆に言えば、自分に自信が無いのです。また問題を大きくして、さも自分が一生懸命仕事をしているかのようにアピールする場合もあります。これはマッチポンプみたいなもので、困難な問題を解決する自分と言う、作られた自己像に酔っているのかもしれません。 仕事がトラブったりすると、周りは青くなっているのに、テンションが高くなって、妙に張り切ってしまうような人が、結構身近にもいませんか? 本人の性格や能力が役職とつりあっていない場合によく見られます。 こういうタイプの人は、祭り上げるに限ります。たとえば、「課長は部全体を見回して、もっとグレードの高い仕事をやっていただかなければなりませんから」と、現場のあれこれ細かい仕事からは遠慮願うことです。部員のひとりだけでやっても効果はありませんから、部員同士で示し合わせてやってみるほうがいいですね。要は、この課長の場合、自分に対する周囲の評価に気付いていないわけですから、「裸の王様」であることをいかに気付かせるか、にみんなのエネルギー 個人的には腹が立っても、「課長が全体を見てくださるので助かります」とでも持ち上げておくといいでしょう。上司は選べませんから、あきらめずにどうサバイバルするかを冷静に考えることです。このような上司をうまく使える部下になれば、サラリーマンとしても一人前でしょう。 21世紀に入っても、日本の会社の多くは、依然として年功序列型です。運がよければ50歳を過ぎてから取締役になり、会社経営に参画できる。そういう年代の人間が集まって、変化の激しい時代に会社経営を担っているのです。会社のトップが60代、70代という会社はざらにある。これでは経営が硬直化しないほうがおかしい、と言えるのではないでしょうか? 人間の能力は、だいたい30代の半ばから後半がピークだと言われています。記憶力や推理力がフル回転し、知識も蓄積し、世の中の事情がおおよそわかってきた世代ですね。その世代こそ最もすぐれたアイディアを生み出し、斬新な改革が行えるといえます。 ところが現実は、会社という組織のピラミッドの真ん中あたりにようやく届いたあたりで、上にはまだ何世代も何段階も詰まっていて、その上司たちに仕え、規則に縛られ、前例に従わなければならないのです。 もはや50歳以上の人に新しいアイディアを期待することは難しい。その記憶力や推理力は低下しており、敢然と決断することもできなくなっている。そうした人間がいまだに権力を握り続け、組織を動かしている、、、、まさに労害と言えますね。 これは官庁も同じことで、役人としてトップに当たる次官につくのは50代半ばになってからで、能力のピークはとっくに過ぎている訳なのですが、そういう人がヒエラルキー(階級)の頂点に立てるのは、人間関係の網を広げているからだといえます。人脈というのは、歳を取れば取るほど広がっていく。何をするにもコネが強い力を発揮する日本の社会では、人間関係も大きな能力として評価されるのである。で、肝心の仕事の能力のほうは、と問えば、まあ大きな失敗さえなければ、前例を踏襲しているだけで、無難に勤められるのである。 公務員を希望した人の多くが、最初からそんなタイプだった人ばかりではないでしょうが、官庁に入って先輩を見習っているうちに、みな同じような【強迫性パーソナリティー障害】になってしまうのだろう、と考えざるを得ないほど、まさに類型化してきているのが現実の姿。 精神医学的に言えば、そういう人間ばかりが集まっている官庁が自ら新しいことを始めたり、これまでの軌道を修正して方向転換することはほとんど期待できない。 どんなに問題が山積していても解決の筋道さえつけられれば希望があり、人生は何度でも輝かせることができます。 しかし、問題の所在を覆い隠そうとし、変化を受け入れようとしない硬直化した社会では、あまり希望が見出せないのも当然です。 少々乱暴な言い方になりますが、今の日本、若者が心を病んだり、突拍子もない犯罪に走ったりするのも、また中年男性を中心に自殺が急増しているのも、そうした閉塞的な社会を彼らが肌身で感じているからこそ、絶望のあまり、、、、なのではないでしょうか? それによりますと、米国における成人7人にほぼ1人、すなわち成人人口の15%にあたる3100万人が何らかの人格障害に罹患しており、このうち約半数が【強迫性パーソナリティー障害】であり、また少数派ながら他人に対して異常なまでの不信感を抱く【妄想性パーソナリティー障害】が相当数にのぼっている、との研究結果です。 が罹患していた。同氏は【強迫性パーソナリティー障害】者は、ルールやスケジュールに気をとられがちで、完璧性を求める。また締まりやである点と強迫性人格とは関連性があり、お金への執着心が強い傾向にある」と指摘しています。 Grant氏は、「パーソナリティー障害」(人格障害)者がアルコールおよび薬物の乱用を起こしやすいと報告。また、上に挙げた各障害は治療可能であるため、今回の調査結果が、これら人格障害の罹患を危惧する人が医師に相談するきっかけになることを期待している、と結んでいます。 |
[ 457] 性格の心理学(性格心理学、人格心理学、パーソナリティ)
[引用サイト] http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/4seikaku.html
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私たちは、ケース・バイ・ケースで、いろいろな行動や態度をとりますが、それでも、その人それぞれに一貫したパターンがあります。 性格の中の生まれつきの部分を「気質」といいます。そのうえに環境によって「狭い意味での性格」ができあがります。その上に、さらにその社会によって作られた「社会的性格」があり、もっと上に、現在の役割に応じた「役割性格」があります。この下の部分ほど変わりにくく、上の部分ほど変わりやすいのです。 基本的に社交的で温かく、親切です。明るくて活発で、ユーモアの精神があります。また、感情的な部分があるので、時には激しく怒ったり、泣いたりすることもあります。 (ドラえもんみたいな性格かな。ちょっと古いけど、肝っ玉かあさんとか、西田敏行の池内げんたみたいな性格かな。) 基本的にきまじめで、静かで、あまり社交的ではありません。変わっていると言われることもあるかもしれません。自然や読書を楽しみます。神経質な部分もありますが、お人好しで温和な部分もあります 几帳面で、秩序を好み、物事に熱中します。堅いとか、まわりくどいと言われるかもしれません。物事に夢中になれる人です。思い込んだら一筋といった感じ。アイドルの「追っかけ」とか。 気質の名前に、分裂とかそううつとかあると、変に感じる人もいるでしょうが、あまり気にしないで下さい。 気質は生まれつきの部分が大きく、変わりにくいものです。しかし、活動的なタイプといっても、積極的で行動力のある性格の人になるか、ただのそそっかしいお調子者になるかは、その人しだいです。行動する前に良く考えるタイプといっても、優柔不断で頼りない人になるか、思慮深い頼りがいのある性格の人になるかは、その人次第なのです。 ・親が子供を「支配」しようとしすぎると、言うことを良くきく子にはなっても、自発性の乏しい性格の子になってしまいます。 ・逆に子供を「保護」しすぎると、情緒的には安定した性格の子にはなりますが、弱い子になってしまいます。。 それでは、どんな親がよいのかと言えば、バランスのとれた親です。必要に応じて、時には子供に命令を出し(支配)、時には子供のおねだりをきき(服従)、時には突き放し(拒否)、時には包み込む(保護)。基本的には、子供に対する愛情がもちろん必要ですが、そのうえで、バランスのとれた子育てが必要になるわけです。 男と女はどちらが泣き虫でしょうか? 女性でしょうか。そうだとしたら、それは現代の日本社会が作り上げた社会的性格の一つです。 日本でも、平安時代の貴族の男達は良く涙を流したそうです。自然や芸術に感動して、はらはらと涙を流すのです。そういう場面で涙が出ないと、風流さの分からないダメな男にされてしまいます。 一方、女達はよく気絶しました。西洋の中世のお姫さまも同じですね。ちょっとびっくりすると、「あれえ〜!」なんて言ってひっくり返るわけです。そうしないと女らしくないというわけです。 日本では、後に武士道が広まって、男は泣くべきではないという社会ができあがりました。泣くことに関する男女の違いは、社会が作ったといえるでしょう。社会によって作られ、その社会の中の多くの人が持っている行動パターンを、社会的性格と言います。 同じ人間でも日本にいれば日本人らしく、アメリカで生活すればアメリカ人のように行動するのです。性格のこの部分は、時代や国が変わり社会が変われば、変化しやすい部分です。 女子高生の時は、女子高生らしく振る舞います。そして、その子達の中で、大学に行った子達は女子学生らしく、就職した人は社会人らしくなります。結婚すれば主婦らしくなりますし、子供が産まれれば母親らしくなります。お巡りさんは、制服を着ている間は、お巡りさんらしくなるでしょう。 私たちは、人生の中で、いろいろな「役割」をこなします。同じ人でも、母親の前では子供として振る舞い、後輩の前では先輩らしく振る舞います。このような役割に応じた振る舞いや考え方を「役割性格」といいます。役割性格は、その役割が変われば、それに応じて変化していきます。 良くきかれる質問です。答えは、YESです。あなたが、自分の性格は変えられると信じるならば、性格は変えられます。ただ、自分の性格を嫌わないで下さい。いまの性格ではダメだ、何とか変えなくてはダメだ、そんなふうに思わないで下さい。 あなたはいまのままでも、OKです。心や体に部分的な欠点や傷があっても、それを含めて、あなたはかけがえのない存在です。 ここでは、性格について、ほんの基礎的なことだけをお話ししました。性格についてのもっと詳しいお話は、また別の機会にしたいと思います。ページの更新をお待ち下さい。 |
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